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小布施町はなぜ栗のまち?

 小布施町は「栗のまち」として有名です。栽培適地で品質の良い栗ができることや、それを加工した栗菓子が特産品となっていることなどが理由です。しかし、昔から変わらず盛んだったわけではありません。戦後、小布施の栗栽培はリンゴなどに押されて大きく衰退しましたが、観光振興とほぼ時を同じくして、栗菓子店や町民の取り組みで復活し、近年は再び栽培面積が増えて県内一の産地になっています。
 小布施町史によると小布施の栗栽培は中世から行われていたといわれています。強酸性水の松川が形成した扇状地と、水はけの良い地質、日当りの良い地形が栽培に適していて、肉質で甘く、風味のある栗が育つそうです。そうしたことから栽培が盛んになり、江戸時代には将軍家にも献上されていました。
 小布施栗は貴重な珍味で、献上するまで庶民は食べることが許されなかったことから「お留(と)め栗」とも呼ばれたそうです。小布施を訪れた俳人小林一茶は「拾われぬ栗の見事よ大きさよ」と感嘆しました。
 明治元(1868)年には41haの栽培面積がありましたが、その後、産業の移り変わりに伴い、養蚕のための桑畑や、リンゴなどの果樹園に転換されました。加えて、クリタマバチの被害で木が枯死するなどし、昭和30(1955)年にはわずか4haにまで減少しました。
 昭和50年代に入ると北斎館の開館などにより観光客が急増し、栗菓子の需要が高まりました。その動きと相まって栗菓子店が「小布施栗を守り育てよう」と町民へ苗木を無料配布したり、その後も希望者に低価で販売。これらのことで再び栗を栽培する農家が増えました。リンゴやブドウなどに比べて栽培労力が少なくてすむことから、最近は高齢化で栗に転作した農家も少なくないということです。町でも苗木の購入を補助して生産を後押ししています。
 JA須高小布施支所によると昭和45(1970)年に19haだった町内の栽培面積は、同55(1980)年に44ha、平成2(1990)年に63ha、ことしは79ha(生産量見込み184トン)にまで増えました。「2005年農林業センサス」によると、小布施町の栗販売農家(経営耕作地面積30a以上、または販売額50万円以上)の栽培面積は58ha(194戸)で、県全体(103ha)の5割以上を占めて、県内最大の産地になっています。
 栽培されている場所は林や大島、山王島、飯田など主に町の西側で、品種は外来種の「銀寄」「筑波」「丹沢」など。生産量は多くないですが「小布施二号」などの在来種も数種類あります。収穫された栗の多くは町内の栗菓子店に持ち込まれて商品に加工されるほか、農産物直売所などでも販売されています。
 小布施での栗菓子の製造は文化5(1808)年の栗落雁に始まり、栗羊かん、栗鹿の子などが開発され、明治時代半ばには「小布施に銘菓あり」といわれて、名物になっていたそうです。その後もさまざまな商品ができ、土産品などとして人気を集めています。
 多くの家庭にも植えられていて、栗を使った郷土料理も食べられています。また、「栗ガ丘」「クリトピア」の地名、「くりんこ祭り」の名前、「栗ガ丘小学校」の校名、小中学校の校章のデザインなど、日常のさまざまな場面に用いられています。
 このようにして小布施の栗は地域のシンボルの一つとして、産業や文化、経済、まちづくりなどに大きな役割を果たしています。
 約3.5haを栽培している平松農場の平松幸明さんは「小布施栗を継承するとともに、今後は小布施栗の定義を構築し、さらに質の良い栗を栽培していきたい」と話しています。

 

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